うさぎになりたかったバリスタ

ご注文はうさぎですか? を中心とした随想録

香風智乃という女の子




────チノちゃんのコーヒーは最初からおいしいもん!





目次





──ごちうさは人生。

ご注文はうさぎですか?/ Koi 』(ごちうさ)を評する際、時折こんな表現が用いられる。 アニメ界隈においては使い古された言い回しであるものの、これ以上の賛辞も中々ないだろう。 筆者もこの文句には強く賛同しており、個人的には三つの意味を込めている。

 ひとつは、筆者自身の人生として。

 この作品のおかげで見ることのできた景色がどれほどあることか。 かれこれ数年の(一方的な)付き合いになるが、 このように記事を書くほど心酔した作品はほかにない。

 ひとつは、人生の教科書として。

 学年、学校、職場、年齢、家庭環境……。 あらゆる垣根を超えて友情を育む少女たち。 そして彼女たちの成長を温かく見守る親の世代。 彼ら彼女らを誠実に描くこの作品は、 真に友情とは何か、真に愛情とは何か、 人は自分をどう生きていくべきか──色褪せることのないものを教えてくれる。

 そして、その少女たちの人生として。

 人生の教科書といっても、 それは作品の中で何か教示めいた文言が与えられているわけではない。 少女たちの生きる姿を通じて、彼女たちの生きた心を通じて、 我々読者が感じ、考え、咀嚼するべきものである。

 彼女たちは生きている。 これは妄想でも錯誤でもない。 たとえ肉体は存在せずとも、 たとえその世界は架空であろうとも、 彼女たちの心は決して虚構のものではない。

 チノに起こったこの感動も、

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ココアに湧いたこの感激も、

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彼女たちの生きた感情にほかならない。

 とはいえいくら言葉を費やそうと、 「でも所詮フィクションでしょう?」 と軽んじる輩はいることだろう。

 ゆえに筆者は示したい。

 彼女たちの心の生を。

 ごちうさの物語は、チノの成長を軸のひとつに据える。 ココアと出会い、固い彼女がほぐれていく──その過程に本物の心がある。

 この作品と出会って以来、筆者はチノに強く感情移入してきた。 思い入れは一入である。 ゆえに本稿では、チノの心が辿ったその軌跡を、 原作既刊 1 〜 7 巻を中心に感じ取っていくことにしたい。 まずはココアと出会った頃のチノについて、 その心がどんな基調をもっていたか見ていこう。 それを下地として、彼女が何を見、感じ、思い、考えてきたのか、 先に示した二つのシーンを到達点に据え、その変遷を辿っていく。 最後に、彼女の心がなぜその道を歩み得たのか、 チノの心根について一考しよう。

 僭越かつ非力ではあるが、 本稿を通じてごちうさのもつ深遠なるものの一端でも紹介できたなら幸いである。



諸注意

 本稿では主として単行本を参照しながら話を進める。 シーン描写なく引用することも多々あるため、 単行本を手元に置いて読まれることを推奨する。

 以下のように略記および参照記号を用いる。

記号 意味
v
e
p ページ
f コマ
y
m
() 省略可

※ ただし f = コマは、当該ページ右列を 1 〜 4、 左列を 5 〜 8 として参照する(扉絵を含むページは 1 〜 4 のみ)。





基調

 序章でも述べたように、まずはチノの心の基調を捉えていく。ココアと出会い、彼女の意識が変わり始めるまで──およそ原作単行本 1、2 巻、および [4-1] ──を中心に見ていこう。


こどもじゃないです

──春、ココアが木組みの街にやってきた日。 ラビットハウスでの初めてのバイトを終え、チノ・リゼとともに更衣室で着替えるココアは、 「今日の夕飯一緒に作ろうね」とチノを誘うも、「一人で出来ますよ」とすげなく断られてしまう。 [1-2, 22, 2] に見るように、原作では結局ココアも人参とピーラーを手にして台所に立っていた。おそらくはココアが押し切ったのだろう。しかし同シーンに対応するアニメ 1 期 1 羽 では逆に、チノは「一人でも大丈夫」と固く譲らず、ココアはついぞ手伝うことはなかった。

 この変更で強調されたものは何だろうか。


 ココアがチノを誘ったのは、距離を縮めたかったからである。入浴中のチノのもとに乱入したのも*1、一緒の部屋で寝たいと提案したのも*2、根本は同じである。 いくら天真爛漫で人懐こいココアであっても、後にティッピーに吐露したような*3新しい環境に対する心細さはあっただろう。 加えて彼女は、「人を知りたい、出会いたい」というわくわくを抱いてこの街に来ている*4。 自称運命的に出会い、これから一緒に暮らしていくチノに、もっと近づきたい、仲良くなりたいと思うのは、彼女の意思からして自然なことである。

「一緒に夕飯を作ろう」という提案で彼女が期待していたのは、和気藹々とした空気感だったろう。そこに、彼女の過ごしてきた家族との日々が色濃く反映されている。

 同シーンにて、夕飯の支度をする二人のもとにタカヒロが現れる。原作もアニメも流れは変わらないが、後者では少しセリフが追加されていた。

「お、お世話になります!」「チノをよろしく」と挨拶を交わすと、ティッピーを受け取ったタカヒロはさっとバーへ去っていった。 父を見送ったチノはパタパタと台所に戻り、トントンと軽快に包丁を鳴らす。 その一連の様子を眺めるココアの目には、小さな驚きが浮かんでいた。

「お父さんは一緒に食べないの?」

 ココアのこの問いが、健全な(あえてそう言おう)、あまりに健全な家庭で育ってきた彼女のそれまでを物語っている。 夕飯は家族で一緒に食べるもの──そんな温かな常識が垣間見られる。 その後「こうやってると姉妹みたいだね ♪」とチノに笑いかけたココアはきっと、実家の台所でモカや母の横に並んでいた自分を思い返していたことだろう。

 ココアの誘いは家族の温かさに起源をもち、楽しい時間を共有して仲良くなろうとする、彼女の期待が込められていた。


 では、チノにこの誘いはどう聞こえていただろうか。

「お父さんは一緒に……」と尋ねたココアに、父はお店があるから、とさらりと答えたチノ。 そこには寂しさも強がりもない。 自分で夕食を作り一人で食べる。 彼女にとって、この日の出来事は何ら特別なものではない。 もちろん父とティッピーと三人で食卓を囲む日がないわけではないだろうが、一見すると淡白にすら見えるタカヒロとのやりとりには、日常ならではの慣れがあった。 その慣れの中に、筆者はチノの自立心を見出す。 すなわち、自分のことは自分でできるという自負である。

 この自立心は、「こどもじゃない」という裏返された形でしばしば顔を出す。

 [1-7, 63, 6] はその好例だろう。 「甘い香りで飲みやすいカモミール」と勧めるシャロに、「子供じゃないです」と不服を唱えるチノ。 砂糖とミルクを入れなければコーヒーを飲めない彼女でありながら、他人から子供として気遣われることにはちょっとした抵抗感を示している。

 [1-9, 78, 6] では、スキップする間際、チノはきょろきょろと周囲を見回している。街角でスキップをするのはせいぜい、それができるようになったと親兄弟に誇示する幼子くらいのものであろう。経験則的な筆者の独断を多分に含むが、それでも一般的にも、スキップからは幼さが連想されるのではなかろうか。辺りを確認したチノの中には、幼く見えるだろう自分を気にする羞恥があった。

 [2-9, 82, 7] にて、「小さいのに三人ちょこまかされて倍疲れた」と、リゼはチノの頭を撫でた。自分もその一人として数えられたことに、チノはやや不満げである。[3-3, 25, 1-4] でリゼにチマメ隊命名されたときも、三人ひとくくりにされたことに「私も!?」と率直に驚いていた。彼女の中に、「自分は同世代の子たちよりしっかりしている」「ちょこまかするような子供じゃない」といった自負があったからだろう。

 こうした下地を念頭に置けば、チノがなぜ頑なにココアの手を拒んだのかが想像できるだろう。 「変な客」と思いこそしたが、彼女は何もココアその人を拒んでいたわけではない。 「仲良くなりたい」と期待を込めて投げかけられたココアの提案が、「手伝わないと大変だろうから」という子供に対する気遣いとしてチノの耳に届いていた。それゆえに「一人でできる」と譲らなかった。 これは冒頭の問いの解でもある。 すなわち、アニメで強調されたのはチノの自立心であった。 そしてそれは、当時の彼女を成すひとつの心の基調でもあった。



今日もひとりぼっち

「香風智乃です。将来の夢はバリスタです」

──中学入学初日。ホームルームを終えた教室は、期待と不安で騒がしい。同級生たちがおしゃべりに興じる中、チノはひとり、持参した本に目を落としていた。

 ココアと一緒にシストを楽しむチマメが、三人の馴れ初めを回想するシーン*5。2 期 12 羽に採用されたエピソードであり、アニメではチノの目を通した灰色の世界として描かれていた。

「マヤ・メグやココアが来たことで、チノの世界が一変したというふうに見えれば」*6

 橋本監督はそう語る。

 色味のない世界。一人の世界。独りの世界。

 当時のチノが周囲に馴染めなかったことは確かだろう。 その世界を彼女はどう受け止めていたのだろうか。

  *

 同シーンを再び想像してほしい。

──ざわつく教室。立ち話する級友候補たち。 「どこの学校から来たの?」 「さっき自己紹介で○○って言ってたよね?」 「私もそれ好きなの! ね、友達になろうよ」 などなど、みずみずしい声まで聞こえてくるようである。 新しい交友関係を作る試みがそこかしこで行われている。 マヤとメグの行動もその中のひとつであった。 彼女たちざわめくクラスメイトの内にあるのは、新しい環境への期待と不安、そして周囲への関心である。

 読書に耽るチノの中に、それらの感情はあっただろうか。 このシーンの彼女に接近するには、 『チノに友人を作る心づもりがあったのか』 を検討してみるといいだろう。 この問いが是であるとき、彼女は本を読みながらも、心のどこかに期待があったはずだ。 「誰か声をかけてくれないかな……」 という、淡い、そわそわした期待が。 彼女の内向的な性格を重んじるほど、その期待は彼女の心にはっきりと像を結ぶ。 もしこの心模様が実際にあったなら、マヤの声掛けは渡りに舟だったはずである。 しかし彼女の心に訪れたのは、純粋な驚きと数瞬後の困惑であった。 『むりやり』仲間に加えられたとすら、声を掛けられた瞬間チノは感じている。 そこに望みの叶った喜びは見出せない。

 では、チノは他人を拒んでいたのだろうか。 「私は一人がいい、一人でいたい」と望んでいたのだろうか。 それもまた、色合いが異なるようである。 もし彼女に人を近づけない積極的な意思があったならば、 独りを望んでいたならば、マヤの誘いを断ることができたはずである。 しかし実際は、『むりやり』と言いながらもシストに付き合ったのだ。 そこに彼女の受動的な姿勢が現れている。

 この受動性はどんなニュアンスをもつだろう。 彼女の人見知り*7に起因するのだろうか。 当時を振り返るマヤが「チノがもう疲れたって言って」と発言している点に注目すると*8、彼女は受け身ではあったものの、自己主張ははっきりしていたようである。 別のシーンを例示すれば、 先述したカモミールを勧めるシャロへのささやかな抵抗しかり*9、 初めて会った千夜の『ティッピー = ワンちゃん』なる勘違いをきっちり訂正していたことしかり*10、リゼの付けた『ワイルドギース』の名を「可愛くない」と言って譲らなかったことしかり*11、ココアにいきなりいらない子宣言していたことしかり*12──初対面だからといって、チノは自分の意見を抑えはしない。 接客のおかげで年長者と話すのに慣れていたとはいえ、『人見知り』から想起される一般的な人物像とは異なるだろう。 照れやはにかみ──人見知りには恥の意識が伴い、得てして引っ込み思案となる。 人の目に映る自分を過剰に意識するゆえに。 しかしながら、人見知りを自称していたものの、当時の彼女にそうした意識は薄い *13。その他者に対する意識の希薄さこそ、彼女の受動性の核心だろう。 そしてそれは、長い孤独の痕跡でもある。

 今上に挙げた、歯に絹着せないチノの物言いの数々。彼女の言葉には棘があった。 しかしそれは悪意によるものではない。 包むオブラートを持たないために露出した棘である。 それはちょうど、早くに親兄弟から離された仔犬が甘噛みの加減を知らないのに似ている。 何を言うべきか、何を言わざるべきか、その判断が彼女には備わっていなかった。 自分の発言を受け取る他者が意識に上っていなかった。 辛辣な語調は、思ったことがそのまま口を衝いていたため。 当時人と接するのが苦手だったと、後に彼女自身が振り返っている*14が、それは長らく「おじいちゃんとしか話そうとしな」かったゆえの対人感覚の欠如に因るだろう。

 人を希求するでもなく、さりとて拒絶するでもない。 一人に固執するでもなく、さりとて悲嘆するでもない。 灰色の世界はしんと静まり凪いでいて、外の喧騒は遠く──孤独は身近だった。 マヤとメグに出会った日、チノは独りに慣れていた



私は白鳥になれないみにくいアヒルの子です

 では、彼女をその慣れに導いたものは何か。

 それは諦めだろう。


──散歩の途上、野良うさぎに懐かれるココアとは対照的に、チノにはうさぎが寄ってこない*15。 [1-5, 49, 1-8] で描かれたように、チノはうさぎが、動物が好きだ。しかし彼らは彼女に懐かない。 そのジレンマの中で、チノは寂しさにフタをする。

「ティッピーがいますから」

 うさぎと触れ合いたい、そう望む心を黙殺する。 叶わないことを嘆くのでもなく、叶えてくれないうさぎに不平を漏らすのでもなく、 もとより欲していなかったと自分自身に言い聞かせる。 自分の「こうしたい」に素直になれない。 その陰には、「うさぎに懐かれないのも仕方ない」という、卑下にも似た諦念がある。

 同種の心情をすぐ近くに見ることができる。公園で偶然マヤメグと会ったチノに、「さっきの友達とは楽しそうに話してたよ?」と、見たままを率直に伝えるココア*16。 それに対してチノは、「二人が積極的に話しかけてくれなかったら友達になっていません」と断言する。 この言葉にマヤとメグへの拒絶は微塵もない。 「話しかけてくれなかったら」なのである。 「話しかけてこなかったら」ではなく。 そこには恩義がある。 そして、手を差し伸べられなければ何もできなかったと内省し自覚する、『みにくいアヒルの子』たる自分自身への諦めがある。

 慣れるほどに彼女が独りであり続けたのは、今まさに独りである自分が、この先も変わらない、変わり得ないものだと見限ってしまっていたからだろう。


 こうした諦めが基調となり、ココアと出会った頃のチノは自身を過小評価するきらいがあった。

「おじいちゃんのカフェ・ド・マンシーは当たりすぎて怖いと有名でした」と誇らしげに語ったチノは、「私はカプチーノでしか当たらない。まだまだです」と嘆息する*17。 ココアが「十分すごい」と感嘆した声は、チノの耳には届いていても、心にまでは届いていなかっただろう。

 チノの自己評価は概して低い。 特にココアのそれとは極めて対照的である。 父の日のプレゼントにネクタイを完成させたときの様子*18は、二人の違いがよく表れている。

「こんなに頑張ったんだから喜んでくれる」と、自分たちの労を肯定的に評価していたココア。 自分は受け入れてもらえるもの──朗らかな確信がそこにはある。 自分の行いの価値を成果よりも過程や気持ちに置き、 その意義を自分自身で認めることができている。 こうしたポジティブな姿勢は、[1-2, 19, 2-4] で「絵なら任せて!」と胸を張っていた点にも見られる。「金賞」の実態は町内会の小学生低学年の部におけるものあったが、そのような、言ってしまえば瑣末なものにも誇りを持つことができていた点に、自己評価の高さが覗いている*19

 翻って「それとこれとは別」、すなわち究極的には、自分たちの行いを徒労とすら捉えていたチノ。 たとえ父親であっても、自分が作ったものを使ってくれるかはわからない。要不要に基づく客観的な判断である*20。その判断の中に彼女という血の通った存在は無い。 同じ傾向は [2-9, 84, 1] にも見ることができる。ココアに手作りのスコーンを贈ったチノだったが、「酵母菌プレゼントした方が喜んだかな」と、ここでもやはり自分の行いに迷いがあった。 貰う側としては自分を想って作ってくれたことが嬉しいものなのだが、自己評価の低いチノは、ココアや父が自分の行いをそのように捉えてくれるとは考えていない。そう考えるのが難しい質なのである。

 このように対照的な自己評価が形成された根幹には、彼女たちの憧れとその接し方があるだろう。

 ココアの憧れは姉のモカである。 一見スマートに完璧なモカだが、[6-13] で明らかにされたように、彼女もまた努力の人であった。 ココアは姉のその姿を知ってなお──知っているからこそ憧れている。 理想の人であっても、完璧ではない。 少し先を歩く姉を真似しながら、 ココアは手を引かれるようにして育ってきた。

 対してチノの憧れは、[1-4] や [1-9] で彼女の口から語られたように、祖父である。 二人の日々がどのようなものだったかは憶測の域を出ないが、 マスターである祖父はプロである。 無論、彼も日々精進していたには違いないだろう*21。 しかし、彼の立つ領域はすでに極みに近かった。 コーヒーを淹れるその姿は完璧なもの──少なくとも、幼いチノの眼にはそう映ったのではないだろうか。 理想に近づくとは、完璧を目指すのに等しい。 祖父の背は、彼女の行く道のはるか先にあった。

 チノは理想を絶対的なものとして捉え*22、 そこに到達できていない自分を軽視してしまっていた。 今に在る自分を諦め、その眼は未来に向いていた。 彼女にとって『今』は、あるべき姿に向かうための通過点に過ぎなかっただろう。

  *

 自立心と『今』への諦め。 この二つが心の基調となり、 ココアと出会った春、クールなチノを成していた。





変遷

 前章で示した基調を踏まえつつ、 序章の二つの感動に向けて、 主要なシーンを掻い摘んでいく。 [6-12] へはチマメの絆を軸として、 [7-7] へは高校生組への甘えを軸として、 彼女が人や自分に向ける眼差し、 その移り変わりを見ていこう。



チマメ隊のチノ

 ひとりだった彼女の世界に、だんだん足音が増えていく。本節では、彼女の内にある他者の存在感、その変化を、マヤ・メグとの触れ合いを通じて辿ってみたい。


一歩分の遠慮

「あーっ チノじゃん」

──のほほんとした陽気の、休日の昼下がり。 街を案内すべく、ココアと二人散策していたチノ。公園でベンチに腰掛け休憩していると、偶然マヤが通りかかった。

「喫茶店の仕事休みって知ってたら誘ったのに」

 メグと一緒に映画を見てきた彼女は、 チノが休みであることを悔やむように、 ともすれば不服を述べるかのように、唇を尖らせていた*23


 ココアが言うように仲良くお喋りするチノ・マヤ・メグの三人なのだが、微妙な点でまだ距離があった。

 マヤたちはいつ、この日映画に行こうと決めたのだろうか。 [2-6, 56, 1] や [2-6, 58, 2] からわかるように、この日は日曜日である。 とするとおそらく、前日メグと連絡を取り合ったのだろうと想像できる。 もし平日、学校で映画の話題が挙がっていたならば、二人がチノを誘わないはずがないのだから。 もしマヤが社交辞令で「誘ったのに」と言っていたとしたら、この世に信じるに足るものなどない。

 ではなぜ、土曜日だとチノを誘えなかったのだろう。 「誘ったのに」と言うからには、誘う手段は持っていたことになる。 便利な連絡手段と言えば、携帯電話だろう。 [1-9, 78, 2-4] で描写されているように、この時点ですでにチノはケータイ──今では懐かしい、折り畳み式のガラケーである。アニメでは時代に合わせてスマホに置き換えられたが──を所持している。一方のマヤメグは、[2-6] の時点で携帯電話を持っていただろうか。 高校受験期にはメグがスマホを使っている描写があるが、それ以前で彼女たちがケータイを持つ姿は確認できない。

 しかし実を言えば、ケータイの所持・非所持は大した問題ではない。 「誘ったのに」と言うからには、何かしらの手段を講じる意志があったのだ──チノが休みだと知っていれば。 ケータイを持っていたならば、「チノもどう?」と一言聞いてみればよかった。 持っていなかったならば、ココアよろしく「あーそーぼー!」*24と、ラビットハウスを訪ねることもできたはずである。 マヤメグをしてその行動を憚らせたのは、「チノはきっとお店で忙しいだろうから」という事前の独断、すなわち遠慮だろう。

 この遠慮は直後の話でも見ることができる。 チノが初めて嫉妬を覚えた日*25。 結局勘違いであったが(あながち勘違いでもないのだが)、俯きがちだったチノを「具合が悪そう」と心配していたマヤとメグは、 チノの異変に気づいていながら、しかし声をかけられずにいた*26。 「チノは変なところで遠慮する」とマヤは言ったが、 そう感じている二人こそ、 自分たちが踏み込んでいいものかとチノに遠慮していたのである *27

 また、このマヤメグとチノのやりとりからは逆に、チノが抱いていたマヤメグとの距離感も見ることができる。

 マヤメグがココアとリゼと仲良くなると、 「まるで私のことを忘れてしまっているみたい」であると、 チノは一人疎外感を感じていた*28。 千夜は考えすぎだと言ったが、当時のチノにとってマヤとメグ、ひいては友達、他者は、それだけ遠い存在だった。 霧のこめる川の両岸に立っているようなものである。 互いに瀬に立てばかろうじて向こう岸で手を振る影が見えるが、どちらかが岸から離れれば、もう一方はその姿を見失ってしまう。

 マヤとメグはココアとリゼのもとへ歩み寄り、チノと対峙する岸から離れてしまった。 しかしそれは一時のことである。 ラビットハウスでの出来事以来俯きがちなチノを、彼女たちはずっと見ていたのだから。 チノともっと仲良くなりたいと望む二人の心は、こうした点からもうかがえる。

 岸から離れてしまったのはチノの方だった。 二人を見失って寂しさを覚えたチノ。 「自分が思っている以上に、その人たちのことが好きなのかもしれません」とは青山さんの言葉だが、ココアとリゼだけにではなく、当然マヤとメグにも、彼女は愛着を抱いている。 にもかかわらず、引き留めることはしない。離れていくのをただ寂しげに眺めるだけである。 去る者追わず、前章でも見た諦めがそこにはある。 自分を軽視してしまうゆえに『他人にとっての私』をも過小評価するチノにとって、「私のことを忘れてしまって」は誇張でもなんでもなく、正真正銘実感である。 「ずっと俯いたままだったじゃん!」とマヤに指摘されるまで、二人が自分のことを気にかけてくれていることに、チノは気づきもしなかった。二人にとって自分がそこまで大きな存在であると、一年の付き合いをもってなお自覚していなかったのである。

「今 全快したみたいです」と破顔した瞬間、チノはマヤとメグの中にいる自分の存在をはっきりと見ることができた。 ココアとリゼの間で得た「もやもやしてたのは私だけじゃない」という感触を、マヤとメグの間にも得たのである。

 チノと二人の距離は、半歩程度ではあるが近づいた。 その様子がよく表れているのは [2-9, 80, 5-8] だろう。「二人が積極的に話しかけてくれなかったら友達になってない」と断じていたチノだったが、リゼという客観から三人を眺めたとき、マヤとメグの中で差異なく楽しそうにしている彼女がいた。このエピソードの時点においても、チノが『友達』という何か思弁的なものを意識してしまったら、真っ先に浮かんできたのは二人への遠慮だったろう。さながら [3-8, 72, 2-3] のように、ぎこちなさが生じたことだろう。 しかし三人でわちゃわちゃとしているとき、概念的な『友達』がすっかり頭から抜けているとき、そこにいるチノはまさしく二人と仲良しだった。

 [2-7] でチノがもやもやについて気づきを得たことに、マヤとメグは気づいてはいなかった。 しかし二人はその後の日々の中で、上述のようにチノと接していくうちに、彼女の変化を徐々に感じ取っていく。 そして [3-3] に至るのだ。 「最近のチノはよく顔に出る」*29とは、チノをよく見ている二人だったればこそ看取できた気づきである。

 同じく [3-3] において、「メグマヤさんには以心伝心がある」と言ったチノには依然、二人の間に微妙ながらも隔たりがあった。わちゃわちゃの中から抜け出して三人を俯瞰するとき、チノにはまだ『二人と私』の間に見えない境界が見ていた。しかしプールの帰り道、メグのおかげで以心伝心を体験することになる。 幼馴染のメグマヤの間にしかないと思っていたそれが、自分との間にもでき始めていた。その事実は二人への愛着を一層強めたことだろう*30

 そして彼女は思うのだ。二人ともっと近づきたい、と。 それが [3-5] で見られた変化である。 「この機会にお話がもっと上手くなれたら」とは、 受動的だった彼女に起きた転換だった*31



星に願いを

「またみんなで遊べますように……!」

 流れる星を見て、チノは咄嗟に祈る。 その姿を、マヤとメグは何も言わずにこにこと眺めていた*32

「私だけ……?」

 自分だけが、今この瞬間を『楽しい』と感じているのか。歩み寄り、触れ合う喜びを知ったチノは同時に、すれ違う恐れも抱いていた*33

「そうじゃなくて!」*34

 以心伝心の二人は、チノの不安を否定する。

「また一緒に遊びたいね!」

 私たちも同じ気持ちである、と。


 入学以来、チノと仲良くなりたい、もっと近づきたい、と、マヤとメグは望み続けてきた。 俯くチノをずっと気にかけ*35、 ココアへの嫉妬を露わにし*36、 チノから誘ってくれたことを真っ先に喜ぶほどに*37。 二人はずっと待っていたのだ。 「私だけ……?」と不安を抱え続けていたのは、マヤとメグの方だった。 チノの願いは、流星とともに二人の不安を拭い去ったのだった。



二度目のクリスマス

──凜ちゃんさんの張りきった特集記事のおかげで、クリスマスを迎えるラビットハウスはいつになく盛況だった*38。 ココアとリゼが不在の中、千夜とシャロに助力を請い急場を凌いだその翌日、一人でお店の支度をするチノのもとに、 新しいラビットハウスの制服に身を包んだマヤとメグがサプライズで手伝いに来てくれた。

「今の時期誘っても大変かなって……」

 驚きと喜びで涙するチノは、本当は誘いたかったのだと本音を零す。 ちょうど一年前、二人を『お客さん』として扱っていた遠慮はとうにいない。 霧はすっかり晴れ、川には橋が架かっている。


 クリスマスパーティ当日*39シークレットサンタの正体が明かされていく。 チノのサンタはマヤだった。

「いつもお世話になってるからね」

 メグと二人で奮発した、とマヤ。 またしてもチノにサプライズをプレゼントする。 笑顔で手渡す二人とは対照的に、 受け取ったチノはやや困った顔で、 深く、深く、贈り物を抱きしめていた。


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 マヤとメグの言う「お世話」は、[3-2, 18, 4] と同じ意味だろう。 友達の家にたびたび遊びに行き、泊めてさえもらっている。 チノがお店を手伝っているためやむを得ないが、三人の遊び場といえば大抵ラビットハウスである。 その日頃の感謝を込めて奮発したのだろう。

 では、チノは?

 彼女の胸にこみ上げる、抱きしめなければあふれ落ちてしまいそうなほど大きな気持ち。

「それは私の方なのに……」

 やっと呟く彼女の心に押し寄せるのは、決してこのクリスマスの出来事だけではない。

 かつて「おじいちゃんとしか話そうとしない私」だった──その自覚を導く彼女の内省の眼は、彼女自身をよく知っている。 入学したての『むりやり』が、どれほど大きなきっかけだったかを。 お返ししきれないほどの贈り物を、すでにたくさんもらっていることを。 チノを色のついた世界へ一番に引き上げたのは、マヤとメグにほかならない。

──今の私があるのは二人のおかげ。二人との出会いは、私にとって特別。

 当の二人は、チノの抱える全てをは知らないだろう。 しかしたとえ知られずとも、チノだけはずっと、その恩を忘れない *40


  *


「私、たくさんの人に助けられてます」

 子供じゃないと思っていた。一人でできると──できていると信じていた。

 昔の自分を思い返すと、少し恥ずかしい。

 それでも、そんな私を想い続けてくれた人たちがいる。

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 かつて灰色だった世界にはたくさんの足跡が刻まれ、やかましいほど、春の風が吹いている。




高校生組とチノ

 前節ではチマメの仲を通じて、チノから外へ向かう気持ちの変化を主に見てきた。 本節からは反対に、彼女の内側に向かう変化を見ていこう。


音楽会の感激

 合唱でソロパートを担当することになったチノ*41。 花形だろう。 ココアとメグは肯定的に、チノが選ばれたことを祝い称えている。 対してリゼとマヤはチノの性格を慮り、当日舞台に立つ彼女を気にかけている。 チノ自身、後者の不安が大きかった。 そうでありながら、彼女は挑戦することを選んだ。 たとえ学内行事に過ぎないとしても、チノにとってこの決意は大きなものだったはずだ *42

 それにもかかわらず、いざ音楽会当日、ココアたちには「仕事を優先するように」と伝えていた。

 見に来なくていい、と。

「ココアちゃん達来てるかな」と見回すメグにも、チノの言葉に「そうなの!?」と驚くマヤにも、 晴舞台に立つ自分たちを見てほしいと望む、子供らしい素直な甘え心があった*43。 そんな二人とチノは対照的に見える。 叶わないくらいなら、はじめから期待しない。 [2-6] にも見た諦めを看取せずにはいられない。

 さて、歌い始めたチノの目に、客席に座る派手な姿が飛び込んでくる。 そこで初めてココアとリゼ、さらには千夜とシャロまでも来てくれていたと知る *44

 気づいた瞬間、チノを喜びが貫く。

 本当は、心の何処かで期待していたのだ。

 みんなに見に来てほしい、と。

「誰の家族!?」とチノ自身が言ったように、 あの場はせいぜい家族しか来ないほど、規模にすれば取るに足りないものだった。 チノが来場を控えさせたのもあるいは、「たかが学校行事で……」という謙遜と照れもあったのかもしれない。 しかし、ココアたちにとって規模も場所もまるで関係なく、挑戦するチノ、ただその人が大切だったのである。

 その気づきが、ようやくチノに到来する。 その確信がかつて、これまで、どれだけ遠く朧気だったことか。

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 あぁ、この、瞳に宿る歓喜のきらめきよ。

 全身から走り出す興奮の熱気よ。

 自分の大切な一歩を、同じように大切にしてくれるのだと。 彼女たちは、お姉ちゃんたちは、ほかならぬ私を大事にしてくれていたのだと。 この瞬間にこそ、四人の姉へ向かう心からの信頼──甘えが、チノに結晶したのだった。



母との思い出

──音楽会も終わったある日。 ラビットハウス三姉妹は倉庫にいた*45。 目的はチノの母が遺した雑貨の整理である。 チノが先導したに違いない。 姉二人がこのナイーブな問題に立ち入ることはできない。

 ここで問うのは、『なぜこの日母の品を整理しようと思い立ったのか』である。 満杯の倉庫に目も当てられず片付けを始めたら、偶然母の品と再会したのだろうか。 いまや無用の長物に成り下がった品々を処分したかったのだろうか。

 Memorial Blend を紐解けば、ラビットハウスに倉庫はただ一つしかないことが分かる。 1 階のキッチンの奥の部屋、アニメ 1 期 1 羽でココアとリゼがコーヒー豆を取りにいったあの場所である。 当然チノも、常日頃足を運んでいるはずの場所である。

 母の雑貨を彼女は日々意識していただろうか。 これもまた筆者の想像、妄想、願望の類でしかないが、思うに、その存在をずっと気にかけていたのではないだろうか。


 チノが母にどんな想いを抱いているかは、コーヒーに浮かぶ彼女の微笑が教えてくれる*46。 喪失がもたらした哀しみの傷は、親しみと懐かしさのかさぶたに変じている。 じくじくと膿んではいない。

 一方で、[2-1] に対応するアニメ 2 期 1 羽では、 実家に差し出す手紙に写真を同封したい、と意気揚々なココアの何気ない一言──お母さんも喜んでくれると思うんだぁ──に対して、 チノの返答には寂しげなニュアンスが伴っていた。 『お母さん』に反応してのことに相違ない。 たとえ傷口が塞がったとて、かさぶたを見れば傷を負ったその瞬間の痛みが、 その後の疼きが呼び起こされる。 かさぶたはまだ傷なのだ。

 だから筆者にはこう思われてならない──たとえば棚のホコリを叩いたり、 荷物の配置を入れ替えたり、 あるいは豆を運ぶ拍子につま先をひっかけたり、 倉庫に入ると何かにつけて、思い出の箱の存在がチノの意識をかすめたのではないか。 そしてそのたびに、彼女のかさぶたはちらりと切ないかゆみを帯びたのではないか……。 忘れ去ることなどできない。 できるはずもない。 目には入っていた。 意識にもあった。 しかし、あえて触れずにそのままにしておいた──。

 筆者のこの妄想が聞き届けられるならば、 この日のチノは母の品を整理すること、まさにそのことを明確に意識して事を始めたに違いない。 「倉庫もいっぱい」はあくまでも付帯的な理由に過ぎず、 「大切にしてくれる人に出会ったほうがいい気がして……」こそ彼女を決意させた想いである。

 この点を明示した今、冒頭の問いを真の意味において問うことができる。すなわち、

『なぜこの日、母の品を手放す決心がついたのか』

  *

 チノが母を慕っているのは言うに及ばない。 首振りうさぎを見つめる、彼女の眼差しを見たまえ*47。 その瞳が見つめる、在りし日の思い出を見たまえ──。 制服の作り手を打ち明けた、彼女の心を見たまえ*48。嘆息の背後から顔を出す、幼げな喜びをまとった誇らしさを見たまえ──。

 しかしながら慕っているからといって、母の雑貨を毎日手に取り、眺め、思いを馳せていた彼女ではない。 悲しみに耽溺する彼女ではないのだ。

 その彼女をして、なぜ今まで手放せなかったのか。

 思い出が損なわれず、ただそこにあること。 それは彼女にとって慰めだったのではないだろうか。

 日常のふとした瞬間に、一抹の寂しさを孕んでその品々の存在が喚起される。 それを皮切りにそこはかとなくこみ上げてくる、母とともにいたかつての安らぎ。 もう母はいない。それはとうに受け入れている。そうだけれども、そこにまだ母の匂いが残っている気がして──。 手に取るわけではない、それでも、手を伸ばせば届く確証がそこにある。 母の品が安心への通路であり、またそれが現存するという事実が、一つの安心をもたらす。

 それは未練であろう。 かつてあった温かさへの惜別であろう。 そしてまた、独りだった彼女の心の拠でもあったのではないだろうか。

 ではなぜチノは、その思い出の品々を手放す決意ができたのか。

 安心する居場所ができたから。

 それに尽きる。

 母とともにチノが失ってしまったのは、一片の気兼ねも遠慮もなく身を委ねることができる安息の地。 寂しいときに「寂しい」と甘えられる相手。 わがままさえも受け入れてもらえる揺るぎない好意。 お姉ちゃんたちがチノにもたらしたのはまさに、 彼女がかつて失い、そして手放してしまったものたちだった。 自分が自分のままで過ごせる関係。 それこそが安らげる居場所にほかならない。

──川で溺れかけた私を叱ってくれたココアさん。 昔は気付けなかったけど、出会った頃からずっと優しく気にかけてくれていたリゼさん。 音楽会では二人とも、そして千夜さんもシャロさんも、マヤさん、メグさん、そして私のことを応援しに来てくれました。 敬語のままでも、上手に笑えなくても、 少しくらいイタズラしたって…… お姉ちゃんたちはありのままの私を大事にしてくれます。

 コーヒーも、緑茶も、ハーブティーも、パンも。 全てがチノの安心する匂いになったのだ。


  *


──私のために、ずっとここに居続けてくれたおもちゃたち。 でも本当は、遊んでくれる人の下にあった方がこの子たちも嬉しいはずです……。

 安らぎの所在を確信したチノは、いよいよ彼らにお別れを告げる。

「今までありがとう」

 私はもう、寂しくありませんよ──。

 かさぶたはやがて剥がれ、新たな皮膚を成す。




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困ったお姉ちゃんたち

 音楽会とブロカント。 これらのエピソードを経て居場所を確信したチノは、 お姉ちゃんたちへの甘えを隠さなくなる *49。 たとえば [6-4] を見てほしい。シャロに自ら腕枕されにいくチノを。私のコーヒーに注目してほしいとねだる彼女を。 そして比較してほしい。水をかけてはっと我に返っていた彼女と*50『私のため』の気遣いに鋭敏だった彼女と*51

 当初筆者はこの観点から、チノの姉たちとの接し方、その変化のひとつひとつを列挙しようと目論んでいた。だが控えることにする。 それは何だか、筆者の自己顕示に過ぎないように思われる。 この先は筆者の野暮な解説ではなく、本稿の読者たる同志諸氏がそれぞれ原作との対話の中で感じ取っていくべきものだと信じる。

 この件に関して筆者はただ、 『チノに親愛なる人ができた』と語れば必要十分であろう。




ココアとチノ

 困ったお姉ちゃんたち筆頭。 チノの心を語る上で、ココアの存在は外せない。 チマメ隊の永遠の絆を結び、親愛なるお姉ちゃんたちをもつに至ったチノだが、そのきっかけはやはりココアに負うところが大きい。

 ココアがチノに届けたものは何か。

 結論を述べよう。それは愛である。

  *

──中学卒業も間近に迫る冬のある日。 思い出を残すべくチマメ隊は何気ない日常を写真に撮っていたが、偶然合流したココアたちのスパルタ指導の下なぜが踊るはめに*52。 三人の勇姿(?)をカメラに収めるココアだが、マヤ、メグと楽しそうにはしゃぐチノを見てふと絶望する。

「チノちゃんはマヤちゃんとメグちゃんの前では色んな表情するんだね……」

 ココアのつぶやきを耳にしたチノは、 「ココアさんにしか見せない表情ありますよ」と渾身の嘲笑を進呈する。 上げて落とされ身を崩してがっかりするココアに、チノは続ける。

「お姉ちゃんなら……私たちが頑張ってるとこ、しっかり撮ってくださいね」

 その何気ない言葉にココアは感涙する。

「お姉ちゃんがそんなに嬉しかったか?」 と、リゼは涙のわけを推し量る。 普段の彼女の言動を知っていればそう見積もるのも当然だろう。 しかし──

「それもあるけど!」

──それだけではない。


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 ココアはなぜ泣いたのか。 ココアはチノに何を見たのか。 「お姉ちゃん」が全てでないならその残余は何か。 リゼも千夜もシャロも看取できなかった、 ココアだけが感じ取れたものは何か──。

『今』を生きるチノ

 その姿こそ、ココアをして涙せしめたものだろう。


 ココアが初めてチノに嘲笑された日、 チノは自分の写真を撮られたがらなかった*53。 もちろん照れもあったことだろう。 ただ、当時の彼女の心の基調を思い返してほしい。

「ココアさんのようにはできないです」

 自然に笑うことのできない、理想に届かない自分。 そんな『今』を彼女は消化しきれずにいた。

 メグは [7-7, 62, 1] で、「今の私たちを撮ってもらえて嬉しいね〜」と話していた。 撮られたがりのマヤも同調する。 『音楽会の感激』の節でも触れたが、マヤとメグは人に見てもらえることを自然なことだと捉え、喜びを見出している。 その隈のない甘えこそ、健全な自己愛の賜物である。 『甘える』とは、相手に自分を受け入れてもらうこと、そのように相手の好意を期待することである。 それを自然にできるのは、当人が今在る自分自身を、愛するともなく愛せているからである。 遠慮も猜疑も苛責も諦念も欺瞞も、自覚すらもなく、自分が愛され得る存在であると、信じるともなく信じられるからである。

 立ち戻って [2-1] 当時のチノに、写真を撮ってほしい、『今』を残しておきたいと思う愛の喜びはない。 『今頑張っている自分』も『中学生の今』も──彼女の眼は今にありながら『今』を映していなかった。その眼が捉えていたものは理想、将来、もっと『大人』になった自分──。あるいは、過去──。

 ココアが 2 年弱一緒に暮らして見てきたのはそんな、『今』の気配がうたかたのごとく儚げな女の子。 無欲で、甘え下手で、そしてひたむきに頑張る女の子。 お母さんもおじいちゃんもいない寂しさすら我慢してしまう健気な女の子。 「私はいいです」と自分のことを後回しにしてしまう女の子*54──そんな子がココアに向かって、何の気負いもためらいも照れすらもなく、「私を見てて」と甘えたのである。 チノが彼女自身の『今』を見つめ、愛しているのである。その姿を、涙無くして見られようものか *55

  *

 チノに芽生えた『今』を愛する心こそ、ココアとの出会いがもたらした核心であろう。

 では、ココアは何をしたのか。

 節の冒頭でも述べたように、ただただチノを愛したのである。


 アニメ 1 期放送当時、オープニングの最後にチノの作った写真立てが映っているのを見て、あぁついに [2-1] が映像化されるのかと筆者は歓喜に鳥肌を立てたものだが、結局 1 期では扱われず残念に思った覚えがある。 アニメ 1 期に [2-1] を採用しなかった理由について、橋本監督は「ココアがチノのお母さんになってしまうから」*56と語っていた。 『ココアがお姉ちゃんになる 』という 1 期のテーマを曖昧にしたくなかったという。 それを知った筆者は、監督をはじめとするスタッフの方々の並々ならぬ作品愛に敬服したものだ。

 さて、筆者の思い出話は脇に置いておこう。 この不採用の件について、逆に言えば原作にこの話がある以上(そして 2 期で扱われた以上)、チノにとってココアは母的なものでもあるのだ。 それはチノが実はココアに母の面影を重ねていた、など彼女の認識について述べているのではない。 チノにとってココアはどこまでも姉である。 ここでの『母的なもの』とは彼女たちの関係性における話ではなく、 ココアのチノに向ける好意について、 それが母の子に向ける愛情と同質であることを指す。

『初酔い記念日』*57といえば、ごちうさの中でも屈指の人気を誇る回だろう。2019 年 5 月に行われたセレクション上映会でも、この回が収められているアニメ 2 期 7 羽が選ばれていた。 「ごめんねおねえちゃん…いい子になるから怒らないで」なる 300% 激甘のチノに、心臓を捧げた方も多かろう。

 表にこそ出さないでいたが、チノはココアの「敬語じゃなくていいんだよ?」という言葉をずっと気にしていたのだった*58。 酔って本音が漏れるとはベタとも言えるかもしれないが、初めて人と深くつながり、どんな自分ならみんなが嬉しいのか、チノにはわからない。 『星に願いを』の節でも述べたように、 自分がみんなを好いていると自覚した当時のチノは、それが一方通行かもしれない不安も抱えている。 「今の私の方がすき……?」とは、その不安が酔いの力を借りて形になったもの──決してテンプレやサービスとして『言わされた』のではない──である。あぁ、なんと切実か。

 チノのこの質問は、ココアの立場からすれば都合のいい機会でもあったのだ。 「普段もこのくらい甘えてくれれば……」などと、もしココアが酔ったチノに重きを置いた願望を口にしていたら、 頬をむにっとつまんでまで笑顔の練習をするチノのことである*59、隠れて敬語を直す努力をしてしまったに違いない。 しかし、これがココアの偉いところであるのだが、 自身を矯めるべきかチノが思い悩んでいること、それが自分の軽口に端を発すると気づいたとき、心の底から自責の念に駆られるのである。そして「いつものチノちゃん大好き」であると*60どんな彼女であっても自分の好意は変わらないと抱きしめるのである。

 ココアに自責の念が起こったのは無自覚的なものだったろう。さながら [4-5, 44, 2] において自然にモカに甘えてしまったように。彼女の自責は「甘えちゃダメだ」に類する理性の忠告ではなく、より根源的な、価値観の上に起きた危機の直感。自分の好みがチノを矯正してしまう──それを危機だと判じ得たのは、彼女の心を育んだ両親の愛情のおかげだろう。

──ココアが実家に帰省して数日、ようやく繋がった携帯に、木組みの街からメールが届いた (DMS)。 明日はみんな花火大会に行くそうだ、とココアはにこやかに話す。母はその様子を見て、行かなくていいのか尋ねる。母を気遣い、予定を変えず実家に留まろうとするココアだったが、母は娘に聞かせる。

「(仲良くしてる娘たちは見ていたいけど)ココアの思い出の写真も、もっとたくさん見たいなぁ……。ココアはどうしたい?」

 16 歳の娘の、1 年ぶりの帰省である。 母としては当然、少しでも長く顔を見ていたい。 しかしまた、娘が今しかない彼女だけの時間を重ねていくことも──そばで見れないのは寂しいけれど──母の喜びである。 どこにいようと何を選ぼうと、娘の『今』の健やかなるが母の無上の幸福になる。これこそがである。

 その偉大な愛の下で育ってきたココア。 辺境の山奥で何者にも侵食されず、その澄んだ慈愛を享受してきたココア。 そんな彼女の『愛する』とは、存在そのものの抱擁である。 どんな行為にも先立って、ただその人の在ることが喜びとなる──無条件の親愛である。

 もしもココアが『敬語をやめたチノ』を欲していたら、 チノはより『いい子』であろうとしただろう。 そうしたらもはや、彼女は『今』を愛することはなかっただろう。 『ありのままの私』は矯正されるべきもの──その悲しい諦めが、彼女の心奥に刻まれてしまったことだろう。 だが、そうはならなかった。 ココアはチノのありのままを抱きしめたのである。


  *


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 ココアはチノ以上に香風智乃という存在を愛した。 ありのままでいい、それが素敵なことのだと、その愛はずっと囁きつづけてきた。 ココアの届けた親愛を通じて、チノは自分の『今』を愛するに至ったのだ。




コラム:壮大な夢

 チノとココアの行く末について、思うところを述べておきたい。


「大人になってもここで三人で働けたら素敵だね」*61

 ココアの想像にチノは期待を膨らませ、そのイメージを真剣に夢見た。 しかしココアにとってそれは、たくさんあるきらきら印の一つに過ぎなかった。 チノからすれば、裏切られたように感じただろう。 だからこそ怒ったのだ。 彼女はそれほどまでに、三人で働くラビットハウスを好いていたのだった。


 ラビットハウスの夏制服を作る際、ココアは「10 年後も着られるように」と、デザインするチノに注文をつけた*62。 ココアもリゼも、自分たちが 10 年後もラビットハウスで働いている将来を無意識のうちに前提して話していた。 その中でチノだけは冷静だった。

「10 年後もうちで働く気ですか?」

 はっと気付いたココアとリゼが「ついうっかり」「ちゃんと考えてるぞ!」と取り繕うのを聞きながら、チノは何とも寂しげな顔で笑うのだった──以前夢見た将来像を自ら否定しておきながら。

──うっかり、なんですね。

 彼女の微笑は諦めか、あるいは喜びか──筆者はまだ捉えかねている。


 ブロカント*63で購入したサキのマジック道具を使い、 チノに手品を仕掛けるココア*64。 「てっきり買ったきり埃をかぶっていたかと」と、 チノはマジックに取り組むココアの真剣さを軽んじていた。 冗談も半分だろうが、もう半分にはすでに着底した諦めが見える。

 しかしココアの方では、かつてきらきら印の一つでしかなかった空想が、サキのようになりたかったと志し行動に移すほど、着実に具体的になってきている。 二度目のパン祭りでは「お客さん来てくれるかな」*65と、珍しくココアは弱気になる。[3-10, 86, 5] にて、雑誌の取材が来ないと嘆いていたチノを「いつかきっと来るよ!」と楽観的に励ましていた彼女がである。 第三者から当事者へ──ココアが真剣に、ラビットハウスと自分の将来を見据えはじめている。


 今後原作は新学期編へと移っていくだろう。 チノは高校へ入学し、ココアはいよいよ 3 年生。リゼに訪れたように、ココアにも重大な選択が迫っている。 その中で、上に述べた「ココアの将来像とチノの諦め」がどのように発展し実を結ぶのか。 そして、娘たちがどんなラビットハウスを「やりたいように」作っていくのか。 それが描かれる頃にはきっと、単行本の巻数も二桁の大台に乗っていることだろう。 それまでしばし、二人の歩みを見守っていきたい。





心根

 母の逝去によりチノは安らげる居場所を失った、と『母との思い出』の節で述べたが、きっと次のような疑義が挙がることだろう。

「ではチノにとって、父も祖父も安心できる存在ではなかったのか」

 本稿の最後に、この問いを通じてチノの心根に接近しよう。

  *

 同志諸氏は、DMSをブルーレイで持っていることだろう。 しからば早速デッキを起動し、Cパートの後半を再生してほしい。 花火大会当日、チノが千夜に浴衣を着付けてもらったシーンである。

 よくよくご覧いただきたい。 おそらく初めてだろう浴衣を着て、父と祖父の前にもじもじと歩み出る彼女を。 彼らの言葉と態度で、ぱあっと晴れる彼女の表情を。 ここに、余人には入り込めない家族の以心伝心があるではないか *66。 三人の信頼関係は揺るぎようがない。

 *

 おじいちゃん子のチノにとって、祖父は一番の理解者だっただろう。 すでに数度引用しているが、かつて祖父としか話そうとしなかったと彼女自身が述べている。 それが吐露されたのは [2-12, 107, 7] であるが、このコマは雑誌掲載時、次のようなセリフだった。

「私が他の人と話そうとせずに人前でおじいちゃんにばかり甘える心配は、もうしなくていいんですよ」

 念のため、単行本でのセリフも引用しよう。

「おじいちゃんとしか話そうとしない私のことを思って内緒にする必要は、もうないんですよ」

 修正によりニュアンスがやや変わっている *67。 雑誌掲載時のセリフは、彼女が人見知りでもじもじと祖父の後ろに隠れつつも、直接話そうとはせずとも、どこか人を求めているように感じられる。『人前で』に限定される言い回しによって、はにかみながらも外へ向く甘えた雰囲気が底流する。 一方単行本では、全くセリフのとおりただ二人、静けさの内に座している。 見守る祖父と健気な孫娘、二人の間を優しい哀しみがたゆたう。 先に示した心の基調も、後者の雰囲気に近かろう。

 おじいちゃんとしか話そうとしないのは、不得手からの逃避という『手抜き』の意味において、 チノのストイックな内省から見れば甘えだったのだろう。 ただそれは、何をするにつけても祖父に縋るような甘ったれ──DMS で描かれたココアのように、身の回りの世話を全て委ねるような甘えん坊──ではなかった。 この改変は、そのニュアンスを守りたかったのではなかろうか。

 *

 チノが父タカヒロにどのような感情を抱いているのか、原作で明に語られているシーンは少ないが、 彼女が父を敬っていることは確かである。 父の日に捧げたのは日々の感謝だろう*68。 自立心が強くあってもチノがうぬぼれ得ないのは、その感謝が根にあるからだ。 ……いや、話はきっと逆なのだろう。 その感謝があったからこそ、彼女は自立を決意したのだ。


──ココアが熱で寝込んだ夜。 アニメではカットされたが *69、 バイトを終えたリゼは帰宅前にお粥を作ってあげた*70

「チノのお父さん仕事だし、大変にならないように出来るだけ手伝うから」

 味見しながら香風家を心配するリゼに、チノは「理想のお姉ちゃん」の幻影を重ねていた。 その幻影こそ、チノが自身に課していた『あるべき姿』だったのではないだろうか。


 昔の香風家について、原作で明かされている事実は多くない。しかし断片から想像することはできる。少し時間を遡り、チノが小学生だった頃、母亡き後の香風家に妄想の羽を広げてみよう。

──昼も過ぎ閑散とするラビットハウス。 カウンターでは、マスターがカップを拭いている。

 カラン、と入口の戸が開く。 チノが学校から帰ってきた。

「おかえり」

「ただいま帰りました」

 手短に挨拶を済ませそのまま部屋に戻ったチノは、ランドセルを下ろしノートとドリルを取り出すと、きびすを返した。 お店のカウンターの隅っこに座り、 祖父の淹れてくれた甘いカプチーノをちびちび飲みつつ、持ってきた宿題と向き合う。

 学校を終えてすぐ、どこにも寄らず一人で帰ってきただろう孫娘を、祖父は内心心配しつつ見やる。 しかし一番の理解者だからこそ、それを口にするのは憚られる。

「開けてくれないか」と、戸の向こうから父の声。 ぱたぱたとチノは戸に駆け寄る。 外には買い出しを済ませ、両手いっぱいに荷物を抱えたタカヒロが立っていた。 チノの姿を認めた父は「おかえり」とほほえみかける。 チノもまた「おかえりなさい」と、父が指に掛けていた手提げ袋を取り上げる。

「ありがとう」

 タカヒロは荷物を抱えたまま厨房へ入ると、早速夜の支度に取りかかる。

 宿題を終えたチノは、祖父のコーヒーを淹れる姿をまじまじと眺めたり、淹れ方を教わったりしながらお店で過ごす。 その間も厨房からは、包丁の刻む音や蛇口を捻る音が絶え間なく聞こえてくる。

 日の暮れた頃、ラビットハウスはバーへと変わる。カウンターを息子に譲り、チノを連れてダイニングへ。 夕食は祖父と孫の二人で摂るのが常だったろう。台所に立つ祖父のわきで、チノはピーラー片手に人参と格闘する。

 しっとりと垂れる柔らかな髪からは、ほのかに湯気が立ち上る。 入浴を済ませたチノはパジャマに身を包み、お気に入りのうさぎのぬいぐるみを抱え、階段を降りていく。 お客さんの話し声が漏れてくる戸をそおっと開き、ほの暗い照明の店内をおずおずと覗く。 まだ働いている父に、「おやすみなさい」と一言告げるために。

──以上は母亡き後、祖父が存命の頃の香風家ラフスケッチである。 前述のとおり大半は妄想でしかないが、それでも一点、タカヒロに相当の苦労があったことだけは確かだろう。上はチノの小学生の頃の想像だったが、彼女が中学に上がって以降はさらに過酷で、タカヒロは昼も夜もお店に出突っ張りだったはずである。 夕方はチノとリゼ、またココアが手伝うようになったものの、母に次ぎ祖父も旅立った後は、喫茶店もバーも彼が主体となって切り盛りしている。

 遅くまで働く父を、チノはずっと見てきたことだろう。 経営が順調ではないことをチノも承知している。 その状況でも娘に弱音を見せず、粛々と為すべきことをなす父。 彼が働くのは家族の──娘のため。 それを肌身で知るチノが、何も考えないはずがない。

──私に出来ることがあったら何でも言ってください!*71


 チノは父も祖父も敬愛している。 二人に全幅の信頼を置いている。 しかし、甘えられる存在ではなかった。 二人の手を煩わすまいと、 彼女は『大人』であろうとした。 子供が当たり前に享受すべき、母の愛と共にある、全てが許される甘えの世界。 ほかならぬチノ自身がそれを棄てたのだ。 彼女の無私の献身が、子供であることをやめたのだ。

 自立心の根底には、家族への健気な気遣いがあった。





 時折、こんな問いを目にする。

『クールなチノと明るいチノ、どちらが本当の彼女だろうか』

 筆者の解はこうである。

『 "本当の彼女" などいない』

 仮初めの彼女が存在しない以上、 『本当』としてあるべき姿も存在しない。 優しい心根が、彼女を独り立ちへと導いたのだ。独りを知るから、あたたかみを悟れたのだ。どの瞬間も、彼女の懸命な『今』である。


 筆者は今回、香風智乃という一人の女の子のために筆を執った。彼女の美徳を、心を、その生を──本稿は一分でも示し得ただろうか。 そうあることを祈って、筆をおく。





*1:[1-2, 22, 5]

*2:[1-2, 23, 3]

*3:[2-9, 79, 9]

*4:[7-9, 79, 1-4]

*5:[4-1, 6, 6]

*6:"ご注文はうさぎですか?? TVアニメ公式ガイドブック『Miracle Blend』," pp. 85

*7:[2-6, 57, 6]

*8:[4-1, 6, 6]

*9:[1-7, 63, 7]

*10:[1-5, 34, 2-4]

*11:[5-3, 24, 7]

*12:[1-1, 12, 7]

*13:これらの例とは反対に、ココアのクラスメイトとの二度目の対面を前にして、チノは赤面して恥ずかしがっている[6-8, 73, 4]。これこそ『人見知り』の反応ではないだろうか──彼女の思春期が示唆される。

*14:[5-3, 24, 5]

*15:[2-6, 55, 2]

*16:[2-6, 56, 7]

*17:[1-11, 94, 2]

*18:[2-4, 42, 1-4]

*19:この点は、田舎育ちゆえの井の中の蛙であったとも言える。しかしここで注目すべきは、そのささやかな賞に誇りを持てるほど、周囲の年長者──両親や兄、モカ──が彼女の頑張りを大切にしてあげていた点であろう。

*20:無論、普段蝶ネクタイを着けているからといって、愛娘が自分のために作ってくれたネクタイを無下にするタカヒロでは決してない。

*21:[2-5, 46, 4]

*22:例えば後に [5-9, 82, 3] にて「騒がしいのはお爺ちゃん嫌がります……」と言うように、チノは『祖父の目指したラビットハウス』の実現を目標に立てている節がある。 嫌がるのは祖父であり、チノ自身ではない。クリスマスの賑やかさは「悪くない」のである。 しかしまだ、彼女の理想は祖父のそれから分化されずにあった。祖父の遺志──あるいはまだ意志か──がラビットハウスのあるべき姿としてチノの中に据えられていた。

*23:[2-6, 55, 6]

*24:[4-11, 86, 3]

*25:[2-7]

*26:[2-7, 66, 5-6]

*27:このためらいを物怖じせず乗り越えられるココアがいかに稀有な存在か。シャロも言ったように、他人の心に土足で入り込んで馴染めるのはココアの立派な才能である。

*28:[2-6, 64, 3]

*29:[3-3, 31, 2]

*30:[3-3, 31, 3]

*31:この話の前に高校生組と映画を見に行く話 [2-11] がある。 そこにチノの転換の萌しがある。 映画の良さを語り合いたいと切り出したのはチノであった。 しかし、ココアとリゼの感想にただコクコクと頷くばかり。 語りたい熱意と、語る言葉を持たないもどかしさ。 「まだお話してたい」のに、うまく喋れない──あぁ、なんといじらしいことか。

*32:[4-12, 108, 7]

*33:ココアが「部活入ってみたかったなー」と零すのを聞いて、チノは「うちの仕事……嫌ですか?」と真剣に心配する[4-9, 70, 3-4]。三人で働くラビットハウスにチノは心地よさを感じていたが、実はココアは、学校のルールのために渋々手伝っていただけなのかもしれない──。結局ココアのそれは興味本位に過ぎず杞憂であったが、当時のチノが「実際のところみんなはどう思っているのか」に敏感になっていたことがうかがえる。

*34:アニメ 2 期 11 羽

*35:[2-7, 66, 6]

*36:[4-1, 10, 6-7]

*37:DMS

*38:[6-11]

*39:[6-12]

*40:いつかチノが二人と酒を酌み交わしつつ語る日を、筆者はただ妄想するばかり。

*41:[5-8]

*42:この決意について、「みにくいアヒルの子」であると諦めが先行していた彼女[4-8, 64, 8]から変化が見られる。 バレエの経験が直接的な自信──「あの経験があったのだから」と自分を鼓舞する意味での直接的──を与えたわけではないだろうが、 やってみれば案外できるものだと、良い楽観が彼女にできつつあったのだろう。 ただ、それらは彼女の背中を押したとしても、踏み切るに足る理由だったのだろうか。 何か他に、彼女を決意に導いたきっかけがあったのではないだろうか……。 もし妄言を垂れることが許されるならば(本稿のほとんどが妄言ではあるが)、筆者はこう思っている。 『歌』に格別の意味を見出したからこそ、挑戦に踏み切れたのではないか、と。 格別の意味、すなわち、母の面影である。 [5-8, 73, 14] でアルバムを見返していたチノ。 それを棚から取り出したとき、取り出そうと思い立ったとき、彼女を占めていた想いは何だろうか──。 [2-1]、[3-4] など、彼女が母との思い出を大切にしていることは言うまでもない。 そして後の [6-1] でも見るように、彼女は歌に際して母を想う(そも [5-8] があったればこそだが)。 『歌』という、母と自分の共通点。 『大勢の前で』の不安が落ち着き、『歌うこと』それ自体と向き合った瞬間、 すなわち [5-8, 68, 3] と [5-8, 68, 4] の間において、彼女の脳裏に母の姿が浮かんだのではないか……。 妄言はこれくらいにして、大人しく SFY を待とう。

*43:[5-8, 73, 5]

*44:リゼの左隣に座る、Yシャツの袖だけ覗かせる人物は、きっとタカヒロだろう。そうであって欲しい。そうであるに違いない。晴れの舞台に臨む愛娘を、ましてかつて妻のいた場所に立つその姿を、彼が見に行かないはずがなかろう。そして何より、『みんな』来てくれたのだから。

*45:[5-9, 76, 2]

*46:[2-1, 16, 8]

*47:[5-9, 76, 4]

*48:[3-4, 39, 7-8]

*49:もっともココアとリゼについてはそれ以前、[5-1, 7, 3-4] にその萌芽があった。情はともに過ごす時間に比例する。

*50:[4-12, 100, 7]

*51:[4-5, 38, 3], [4-10,80, 7]

*52:[7-7]

*53:この描写はアニメ 2 期 1 羽オリジナルである。[2-1] と 2 期 1 羽は時系列が異なるため、ここで述べた心情がそのまま [2-1] に当てはまるとは限らないが、少なくとも [2-1] 当時の彼女が自分自身に積極的でなかったことは確かだろう。また筆者は、ごちうさのアニメは原作で紙幅の都合上拾えなかった細部を描いていると解している。そのため、[2-1] と 2 期 1 羽を、心情の面では同一視する。

*54:例えば──制服のリニューアルを持ちかけたのはチノだった[3-4, 38, 1]。彼女の制服への愛着は『母との思い出』の節で触れた通りである。にも関わらず、その思い入れを自分からは明かすことなく、彼女は二人の便宜を優先するのである。

*55:ココアの涙は、あるいは Koi 先生の涙だったのかもしれない──心情を離れ、[7-7] を表現的な観点から見れば、『嘲笑』を通じて [2-1] とのつながりを明示し、対比を生む効果がある。 嘲笑はあくまでも楔に過ぎない。 意図的に嘲笑を操るチノのユーモアも見逃すべきではないが、このシーンの本質は、ココアと出会いチノが得たかけがえのないもの、 物語の最序盤から深々と降り積もって成った美しい結晶、 その提示にあるだろう(抽象的な表現で申し訳ないのだが、乏しい語彙で『それ』を言語化し、その豊かな情緒を波束の収束よろしく奪い去ってしまうことに筆者は恐怖している)。 そしてまた、[2-1] から切っても切り離せないのはチノの母サキの存在である。[7-7] において彼女の存在に関する直接的な言及は何一つない。 しかし二つの話の確かなつながりが、母もチノが『それ』を得るのをずっと見守っていたような、ついに安堵し、行く先にきらめく娘の幸せを喜ぶような──まさに [6-6, 52, 6] のような──そんなほのかなあたたかさを [7-7] に漂わせるのである。こうした奥行き、余情こそ、ごちうさの、Koi 先生の真骨頂であると筆者は思う。

*56:"ご注文はうさぎですか? TVアニメ公式ガイドブック『Memorial Blend』," pp. 116

*57:[3-11]

*58:[3-11, 98, 5]

*59:[3-10, 92, 2]

*60:[3-11, 99, 1]

*61:[2-11, 100, 6]

*62:[5-1, 10, 6]

*63:[5-9]

*64:[6-1, 11, 6-7]

*65:[6-4, 35, 5]

*66:真っ先に父・祖父に見てほしいと望む彼女の慎ましやかな甘え。 それをなかなか口にできないいじらしさ。 そして、『初めて』への不安──キョロキョロと好奇心をあらわにする彼女は、お祭り自体が初めてだったのだろうか。 「楽しんでおいで」と微笑んだ父には、理解と愛があった。

*67:元のセリフは言い回しがやや説明的であるので、そのために改変されたのかもしれない。 ニュアンスと言い回しと、どちらの修正が意図されていたのか、はたまたどちらもだったのか、 そもニュアンスは変えられているのか、我々読者の知る由もない。ただ筆者がそう感じたのみである。

*68:[2-4]

*69:『ココアがお姉ちゃんになる』ことがアニメシリーズ 1 期のテーマだった。ゆえにカットせざるを得なかったのだろう。アニメ制作陣のこうした繊細で徹底した心遣いに、筆者はただただ敬服する。

*70:[3-13, 113, 5-8]

*71:[3-13, 114, 3]